西性寺沿革

移海山西性寺の開創は天正12年(1584)にさかのぼります。西性寺の開基住職釋了喜法師は、もと江州多賀庄茂原村(現在の滋賀県犬神郡多賀町桃原)の寺院の出身です。了喜は、元亀元年(1570)本願寺と織田信長との間で石山合戦が始まると、直ちに「法然親鸞両上人お別れの御影」を奉持して石山御坊に上り、この合戦に参戦し、本願寺第11代門主顕如上人に仕えました。

天正8年、勅により本願寺は信長と和睦し、顕如上人は宗祖御影を奉じて大坂から紀伊鷺ノ森、その後和泉貝塚へと移られ、了喜はこの間も顕如上人に仕え行動を共にしました。天正10年6月、本能寺の変で信長が殺害され、世は秀吉の時代に移ります。秀吉は、依然として全国的に大きな勢力を有していた本願寺に対し、敵対することなく、友好的な政策をとりました。

戦乱が落ち着き平和の兆しが見えてきた頃、了喜は、貝塚本願寺のお膝元「ぬか塚(南の春木)」の門徒衆の招きにより、この地に寺基を定めました。その際、了喜が石山合戦に参戦するとき奉持してきた「お別れの御影」に対し、天正12年2月20日付で顕如上人から添え書きを賜りました。よって、この時をもって西性寺の開創とされています。

▲上 昭和60年頃の滋賀県多賀町桃原の雪景色。西性寺の開基住職釈了喜の出身地。
下 元亀元年頃、江州多賀庄茂原村から、石山合戦に参戦するため、釈了喜は、村の若者2人を伴い山道を下った。

▲石山本願寺 本願寺と織田信長が戦った、石山合戦の様子。

▲ 聖徳太子像
西性寺門徒の故有水登留さん作。大工さんでもある有水さんは、現在の西性寺本堂の建設にも携わてくださった。この聖徳太子像以外にも、親鸞聖人像など多数の木彫像を奉納された。

▲常燈明
平成25年5月、親鸞聖人750回大遠忌法要の記念事業として、本願寺に不滅の燈火として伝わる燈明を分灯していただきました。門徒の皆さんが徒歩で本願寺から淀川沿いをリレーし、大川から大阪湾を門徒の漁師さんたちが船で運び、春木港からまた徒歩で奉迎した有難いお燈明です。今も一度も絶やされることなく灯され続けています。これからも永く受け継がれていくことでしょう。

▲西性寺開基住職、釈了喜像
(塑像、制作年代不明)

寺族紹介

西性寺住職

根来亮裕

1954年(昭和29年)生まれ。龍谷大学卒業後、北御堂津村別院に7年間奉職。1986年住職就任(32歳)当時の宗門のスローガン「念仏の声を子や孫に」を念頭に、少年教化に力を注ぐほか、地元の保護司も務める。読売書法会無鑑査、日本書芸院二科審査員、青潮書道幹事。近所の子どもたちと、お習字を楽しみながら、仏前での作法や一般の礼儀作法を教えている。ご門徒さんたちと一緒にお勤めするお朝事(毎朝の勤行)と晩酌を日課?とする。

西性寺坊守
根来貴子

日々、西性寺護持の為、ご門徒さんの相談相手として奔走中。

西性寺副住職

根来亮慧

1987年(昭和62年)生まれ。関西大学に就学後、龍谷大学文学部真宗学科へ編入、同大学院実践真宗学専攻修士課程修了。西性寺の後継者として法務の傍ら、西性寺門信徒台帳を作成中。本願寺布教使、特別法務員。影絵を用いて布教を行う団体『ともしえ』のメンバー。北は北海道から南は九州まで、今までお寺にご縁のなかった方や若い方にも親しみやすい新しい布教の形を目指し日々模索中。